このように、二十世紀のフッセルが、自然科学の対象としての自然を「単なる出来事の圏域」と呼んだ意味も理解されるであろう。自然科学の自然は、理論化的・客観化的主観にとって初めて存在するのであって、それは、「時間・空間的な実在物に本当に認められるすべての述語」の総体であるどころか、われわれの実践や価値評価に関わる述語をすべて除き去った「単なるザッヘ(Sache)」なのである。こうした自然科学にとっては、人間が心身の合一だということは、本当はどうでもよいことでなければならない。人間はどのみち惰性的・機械的・無目的なものとして考察されて、そこに生理学が誕生し、さらには、われわれが日常の用語で「感情」や「思考」などと呼んでいるものを「身体機構全体、特に内臓や腺の諸系の甚だしい変化を含む遺伝的な反応パターン」として、あるいは「無言(インプリシット)の言語活動や言語活動に代りうる他の活動のすべて」として読みかえていくようなワトソン流の心理学が誕生することになるからである。
再びデカルトを引き合いにするならば、彼は心身の合一を認め、それらの相互作用の議論を『情念論』で展開したが、だからと言って、人間の身体はアリストテレス的有機体に帰ったわけではない。その書は、あたかも今日の行動主義心理学を思わせるような論述で始められている。「能動と受動(情念)とはつねに同一であり、それを関係づけるべき主体が二つあるために異名をもつ」だけであり、したがって「心において受動(情念)なるものは、身体においては一般に能動と考えられなければならぬ」と。これはまるで、われわれに起っているのはただ一つの出来事であり、それが観点の相違によって、心の出来事とか身体の出来事と名づけられるにすぎぬ、と言わんばかりの口ぶりではないだろうか。心身の合一とは、厳密に言えば、「精神が真に身体全体に合わされている」ことであり、精神が身体の或る部分にのみあって他にはないということではない。したがって精神は「身体を構成する物質の延長にも次元にも」関係せず、あくまでも「身体諸器官の総体」に関係するのである。周知の松果腺は、「心が他の部分におけるよりも特によくその機能を果す部分」というにすぎない。してみれば、心身合一と言っても、それは決して、独立した二つの実体がまずあって、次にそれらが接合するといったことではない。人間の死は、デカルトにとっては、魂の遊離によって起るのではなく、身体の或る部分の破壊によって起る「時計または機械の故障」にすぎなかったが、逆に言えば、その機械は、動いているかぎり、全体としては心をもつということにもなるのである。
もし近代科学の物心二元論を以上のように解することが許されるならば、当然起ってくる問題は、そのような立場で、精神や心について語ることにはたして意味があるかということである。もし意味があるとすれば、それは認識主観としての精神や心であるはかないのではなかろうか。因果律や慣性の法則や動力因の網にかかるような精神や心は、原理上、どこにもありえないからである。事実、ワトソンの行動主義心理学が、感情や思考を身体の反応として読みかえたとき、それは感情や思考の原 衆因について述べたのではなく、日常の主観的な言葉で表現されているものを、客観的な科学の用語で 記述し直したのである。ワトソンにおいては、意識という言葉でさえ、生体の行動を観察し記述しているワトソン自身にとってしか意味のないものであったであろう。
ここに一匹のアメーバがいるとしよう。アメーバはせいぜい0.1ミリメートル大の粘液状物質の小塊であり、その偽足の運動は、稀釈した炭酸液の上に落された一滴の油の運動に似ていると言われる。油滴は、水面の泡立ちによる表面張力の変化によって動くわけであるが、アメーバの偽足の運動も、表面張力の利用によるところが大であるらしい。それでは、どうしてアメーバは、単なる物質の塊ではなく、一個の生物なのだろうか。それは、たとえばボイテンディクによれば、アメーバの行動には、外界の条件から一義的には決められない或る不確定性があって、餌を「追いかける」とか「捕える」といった用語なしでは理解できないような或る「意味」が認められるからである。こうした「意味」は、明らかに百口麟」のレベルに属するものであって、「原因」と呼べるようなものではない。原因は、すでに見たように、惰性的なものに作用する「背後からの力」であるのに対して、「追いかけ」たり「捕え」たりするという「意味」は、むしろ惰性に抗して前望的に働く、当の主体自身の自発性に属するものであり、そしてそのようなものこそが普通には動機と呼ばれるからである。
こうして、われわれは、デカルト的な二元論を貫くか、それとも生物の客観的存在を認めて、自然科学の二元論を放棄するかの二律背反に当面することになる。だが、注意すべきことは、油滴のどんな運動の考察によっても、それ自体からアメーバの行動の合目的性を導くことはできないだろうし、合目的性ということが思いつかれることさえありえないだろうということである。ワトソンにしても、内臓や腺の諸系や口喉の運動の観察だけでは、感情や思考と言い表わされる特異な現象を画定することはできなかったであろう。それらの特異性は、「内省」的意識にとってしか存在しないはずだからである。ワトソン以後、たとえばトールマンのような人が、生体の「欲求」とか「目的」といったものに対応する仲介変数を導入せざるをえなかったという行動主義の歴史は、因果的説明という行為自体が主観的了解を手びきにせざるをえないことを示すものではあるまいか。
周知のように、今日の生化学と言われるようなものでは、生命現象そのものが、生体を構成する物質の種類やその化学的構造・機能から説明されようとする。これはデカルト主義の徹底であろう。しかし、そこにも同じような問題がある。たとえばジャック・モノーのような人は、生体の遺伝を説明しようとして、デオキシリボ核酸の中にたたみこまれた「情報」が、もう一つの核酸であるリボ核酸に「転写」され、それがさらに「識別」され「翻訳」されて一種の鋳型が出来上り、それによってアミノ酸残基の配列順序がきまり、その順序にもとづいてその生物固有のタンパク質の合成の仕方が決定され、このようにして「指令」どおりに複製の不変性、つまり遺伝が維持されるのだという。しかし、こうした彼の用語が、われわれが日常生活で用いるようなきわめて人間的。主観的な用語から借りて来られたものであることは明白であろう。「単なるザッヘ」としての化学的物質には、指令もその識別も翻訳もありえないはずだからである。 一切の出来事の説明から「目的因」を排除しようとする彼の「科学的方法」も、巨視的観点から見られた生物の「合目的的性格」に導かれているばかりか、合目的的な用語で綴り合わされてさえいるのである。
