フッセルが1920年代の半ばに「ヨーロッパ諸学の危機」を叫んだとき、彼の念頭にあったヨーロッパ諸学とは、ほぼ右のようなものであった。フッセルによれば、近代の実証諸科学は、価値や実践的意味をはぎとられた「単なるザッヘ」の収集に専念する「事実学」であり、それは「単なる事実人」を生み出したにすぎなかった。「単なるザッヘ」の収集は、その仕事自体をもただの「ザッヘ」とすることによって、学問の存在意味への問いも、さらには「この人間の生存全体に意味があるかどうか」の問いをも拒否するからである。そして、この状況を彼は「危機」と呼んだのである。

この危機が、すでに見たように、近世初頭における「自然の数学化」に胚胎しているとすれば、その危機の克服には、まず自然の数学化それ自体の意味・目的への問いが先行しなければならない。ところで、どんなに純粋な幾何学も、その語源の示すとおり、実は一つの測量術として出発したものである。その出発の当初には、日常生活のさまざまの必要があり、物の形態のうちで特に目立つ「面」や「稜」や「線」などへの素朴な注目があっ想。それに、何よりも、われわれが仲間とともに切り開いている「〈われわれ〉という地平」があった。しかし、測定の精密さが要請されるにつれて、物はその感性的直観を越えて類型化され、理念化されていった。そうした手続きの極限が幾何学なのである。

したがって、数学的自然科学の自然は、客観的に現実的な実在世界であるどころか、数学的シンボルの衣服で掩われた派生的世界であり、「生活世界」をその「意味基底」としてもつ一つの意味形成体にすぎないわけである。この生活世界は、右に見たフトソンやモノーの例で言えば、彼らの客観主義的術語の導き手となり、その文脈をつなぎ合わせていた日常的用語の位置する世界と言ってもいいであろう。この世界は、フッセルによれば、主観的というよりも前対象的な匿名のものであり、われわれにあまりに近いが故に平生はわれわれに隠されているために、かえって、数学の適用されうる「単なるザッヘ」としての自然だけが「客観的に現実的な真の」自然であるかに思いこまれるのである。こうしてフッセルは『危機』書の中でくり返し「生活世界」への還帰を説いている。

だが、その際フッセルは、われわれが生活世界と同じ匿名性に帰るべきだと主張しているのではない。むしろ彼は、生活世界をさえ一つの世界として意味的に構成している主観性、つまり彼のいわゆる「根源我」の発掘を求めているのである。これは、あらゆる物を、意味付与的に働く「志向的」意識の相関者と見ていく「超越論的現象学」の立場、つまり一切を超越論的主観性によって構成された意味形成体として捉える『イデーン』の立場の貫徹である。したがって、実を言えば、フッセルの真意は、自然科学の世界が虚構で、生活世界だけが実在の世界だという点にあるのではない。ただ、『イデーン』の時期には、あらゆるものが「自然」「生命」「精神」などの「領域」の中で捉えられ、それらがそれぞれを対象とする諸科学の領域として並列的に基礎づけられようとしていたのに対して、晩年の『危機』書では、科学以前の生活世界をも含めた一切が、「根源我」の意味付与の働きによって、意味の動的な階層として統合されようとしただけのことである。したがって、自然科学的世界も、生活世界にとっては派生的であるにしても、それをそのように統一し意味づけている自我があるのであって、その限り自然科学的世界も、この意味のレベルではそれなりに真実の世界でなければならない。その虚偽性はただ、意味付与的に働いている自我を忘却する自己欺臓としての虚偽性のうちにあるだけなのである。

こうしてフッセルは、前望的視点からのあらゆる意味を奪われた死せる物質の世界と、合目的的に了解される日常的。実践的な世界の対立を、根源的自我の目的論のうちに統合し、それらをいわば一種の動的階層として位置づけ、両者を了解的に捉え尽そうとする。彼がしばしば、「理性の目的論」とか「目的論的歴史考察」などと言う意味もそこにあったと思われる。しかし彼はひるがえって、一切がそこで基礎づけられるはずの「根源我」が具体的にどのようなものであるかについては、断言を避けている。彼はただ、時間論などにおいて、そうした自我の在り方を逆説的な表現で示唆しているだけなのである。ここで時間が問題になるのは、われわれにとって最も原初的な意味で「現在」をなすのは、われわれ自身が存在しているこの今の時点であり、したがって「生き生きとした現在」の考察こそが、自我の最も根本的な在り方を開示するはずだからである。だが、自我の反省は、反省そのものの構造からして、必ずしも自我をその「生き生きとした現在」において捉えるものではないという原理的困難のためもあって、その現在は、「流れつつ立ち止る現在」とか、「より速くなったり、より遅くなったりしえない」流れなどと、逆説的に言い表わされるだけである。『危機』書の中では、「根源我」が結局は身体として解釈されるべきことを示唆するような叙述もあるが、しかし固有の意味での身体は、かつて『イデーン』第二巻の中で、 一つの領域として問題にされ、それが身体として構成される仕方が考察されたままで終っているのである。そのかぎりでは、フッセルにとっても、身体は、対象としての身体の域を出なかったと言っていいであろう。