古来、身体について論じない哲学は一つもなかった、と言っていいであろう。身体の存在は自明である。それにもかかわらず、今日、改めて身体が問題にされなければならないとすれば、それはなぜだろうか。
身体について考える場合、ぜひとも区別すべき二つの問題設定があることに注意しなければならない。一つは、身体を認識の対象として問題にするやり方であり、もう一つは、それをみずからの認識の主観として問題にし、いわば反省の眼差しによって捉えるというやり方である。「主観としての身体」という言い方は聞きなれない響きを与えるであろうが、しかし、われわれは肉体をもってこの世に生きており、この肉体なしでは〈私〉なるものも存在しないとすれば、私の身体は何よりもまず〈受肉した主観〉として存在しているのである。ところが、従来論じられてきた身体が、特別な解釈なしで見るかぎり、認識対象としての身体であったことは、〈主観としての身体〉という言葉の耳新しさ自体が示しているとも言えよう。してみれば、とりわけ今日復権を必要とする身体があるとすれば、それは主観‐身体でなければならないと思われる。
事実、今は亡きフランスの現象学者、メルロ=ポンティの哲学を除けば、身体を主観として考察した議論は、それまではとんど皆無に近かったと言ってょい。そこで、以下に、まず、メルロ=ポンティをして身体をそのようなものとして発想せしめるに至った近代以降の思想の問題史を検討しておきたい。彼のその発想は、何よりもまず、長い間ヨーロッパを支配した近代自然科学の認識論への反省として生まれたものだったからである。
デカルト的二元論の意味
近代自然科学の認識論と言っても、それは多様な側面をもっており、 一律の議論は慎しまなければならないが、われわれの今の課題からすれば、まずデカルトに注目するのが適当であろう。デカルトの「我思う、故に我あり」が近代自然科学の認識主観の定式化であったばかりではなく、メルロ=ポンティ自身が、みずからをたえずデカルトに対峙させているからである。
デカルトといえば、ひとはすぐに、右の命題にもとづいて自我の確立を語りたがる。なるほど、ヨーロッパの人間的自我は、中世以来、キリスト教のヒエラルヒーの中で長い問窒息しつづけてきたことであろう。それにしても、もはや十七世紀に属する「法服の貴族」の秀才のはまれ高き子弟が、本当に自我の存在に疑いを抱くなどということがありえただろうか。デカルトの自我論は、むしろ彼の物心二元論にふさわしい認識主観の在り方の探求という意味をもっていたと見るべきではあるまいか。
「私はある、私は存在する」、ただし「私が考えている間」だけ存在する。だから「私は考えるもの、つまり精神、悟性あるいは理性にはかならない」。「私は、人体と呼ばれるあの肢体の集合ではない」。
――これは明らかに身心の二元論である。この『省察録』の二元論は、後に、「身心の合一」を説く例えば『情念論』のデカルトによって事実上否認されているから、ほとんど取るに足らぬ議論と思われるかもしれない。だが、もともとこの議論は、人間の身体などの理論として展開されたものではなく、身体の問題はいわば後からやって来たのである。もし、自我の定義につづいて、物質の本質を延長として規定していく『省察録』の文脈に従うならば、その身心二元論はむしろ物心二元論として、つまり物質はあくまで物質であって、決して精神的なものを含まないという趣旨の主張として読みとられるべきなのである。物質は物質だという主張は、この場合決して同語反復ではない。というのも、物質を精神的な合意のもとに把握するのが、当時の伝統だったからである。デカルトの「我思う」は、その伝統への挑戦にはかならなかったのである。
近世初頭の物質観の変遷を概観すると、それはほぼ「重さ」から「延長」、そして「力」への展開として跡づけることができるように思われる。まず、「重さ」中心の物質観は、アリストテレスースコラ的な有限宇宙と「実体形相」の考えに結びつくものであった。つまり、すべての物体は質料と形相から成り、形相がその物を他の物から区別するゆえんの本質ないし本性と考えられるわけであるが、その形相がまた物体の運動の原理ともみなされていた。しかも、その運動は、価値的に秩序づけられた有限な宇宙の中で行なわれなければならない。こうして、たとえば重い物と軽い物との違いは、それらがそれぞれの形相からして宇宙の中で占めるべき自然的な場所の違いにあることになる。重い物は、その物本来の自然的な場所がそれ自体としての客観的な「下」、つまり地球の中心部にあるから落下するのだし、軽いものは、本来の場所が「上」だから上昇する。要するに、自然とは、運動の原理としてのその物固有の形相であり、その形相を「目的」として、いわば合目的的に運動するのが自然物なのである。だから、近代科学の創設者のように言われるガリレオも、その初期には、物体の速度は、その物固有の重さによるのであって、重い物には大きな速度が、軽いものには小さな速度が対応すると考えていた、と言われる。もっとも、この重さが、実はその物体を取り巻く媒質に対する比重であって、上方に向かう物体にも本当は重さがないのではないと考える点に、ガリレオの新しさがあったわけであろう。しかし、すべての物体がしばらく加速された後、そのもの固有の重さに比例する一定の最終速度に達すると考えるとき、彼は明らかにアリストテレス的自然学の圏内にいたのである。彼が後の『新科学対話』の中で「慣性の法則」の発見に触れる際にも、彼はまだ地球を中心にした重力の場の中で論じており、無限で均質な直線運動を結果する慣性は、いわば実在しないようなものとして述べているのである。
こうした状況の中で、デカルトは物質即延長の説を主張した。ということは、デカルトにとって、物体の運動は物体自身の形相によるものではないし、そもそも実体形相は存在しないということである。物体はもはや、運動や静上の原理をみずからのうちに内包したアリストテレス的自然ではなく、完全に「死せる物質」であり、だからこそ物体には、他の物体の作用なしでは永久に静止か運動かのいずれかに留まりつづけるという、慣性の法則が当てはまることになる。ここには、もちろん空間の無限性という新しい考えも前提されている。なるほどデカルトは、神の無限性に対比して、空間などについては「無限定」という言葉を使った。しかしコインによれば、無限と無限定とのその使い分けは、「神学者を懐柔する目的でなされたまやかしの区別」にすぎなかったし、少なくともそれによって慣性の法則がその真の意味を失うようなものではなかった。実体形相なしの物体は、文字通り永久に静止か運動かのいずれかに止まるのである。したがって、物体の運動について問題になるのは、その物に及ぼす他の物体の作用、っまり「原因」と呼ばれる「背後の力」(vis a tergo)だけでなければならない。物体の運動にはもはや「目的」はない。
物質即延長の説で注目すべきもう一つのことは、デカルトにおける空間と物体との同一視であろう。「空間すなわち内的場所とその中に含まれている物体とは、われわれの考えのなか以外では区別されない」と彼は言っている。形相を否定するデカルトにとっては、「力」でさえ、「隠れた質」として拒否されなければならず、物体の占めている空間以外にその物体に属するものは存在しないのである。物体の運動についても、「場所の変化」、つまり厳密な意味で位置の空間関係を考察するだけで十分である。そして、もし空間の諸関係の理論が幾何学だとすれば、幾何学は同時に自然学でなければならない。しかも、デカルトにとって、 一般に数学は、理性によって自明なものとして直観された公理からの演繹体系であって、感覚的経験にもとづくものではないから、デカルト的自然の認識主観は「精神」、つまり身体の存在を必要としない主観でなければならぬことになる。彼が方法的懐疑の迂路を通って到達した自我は、まさにそのような主観だったのである。
カヘの問い
右の概観は、いささかデカルトを図式化しすぎたきらいもあろうが、デカルト的な自我と物質観との相関関係は、ライプニッツの自然学などと対比すると、一層明瞭になるように思われる。ライプニッツにとって、空間の幾何学は、そのまま実在する自然の学ではない。なぜなら、一般に数学的概念は、単に成り立つというだけのものであって、現実存在が必ずそれに対応するというのではないからである。たとえば、位置だけあって、大きさをもたないというユークリッド的な「点」が、現実にどこかに存在するとは考えられない。単なる拡がりの幾何学的関係は、それ自身が実在する物の関係なのではなく、まず物体があって、その共在の関係として空間が存在するのである。しかし他方、ライプニッツは、実体は単純で一なるものでなければならぬ、と考える。集合的なものの存在はすべて、それを合成している一なるものの存在に依存するからである。その意味で、可分的な延長は実在的なものではありえない。そこでライプニッツは、「力」の概念に注目する。力は、空間の一点において働くものであり、その意味で一なるものであるが、また同時に、現実の作用をも含んでいる。こうしてライプニッツは、自然学を幾何学としてよりは、むしろ力学として打ち立てようとしたのである。
だが、力とはどのようなものだろうか。それはもともと、どれだけの仕事をなしうるかの問いに答えるはずのものである以上、 一つの可能性でなければならないが、しかし、やがて働きうるといった「死んだ」能力でもない。「私の言う力は、できること(能力)とはたらき作用)との中間物」であり、それを妨げるもののないかぎり「作用に移り」つつあるものである。言いかえれば、数学的な点が空間的。外延的な意味での一であるのに対して、力はみずからのうちに可能性と現実性をともに含む時間的・内的統一なのである。このように、あらゆるものの現実存在を可能的な生成の相のもとに見るところに、たとえば円を無限の多角形と見ていくような微積分の考え方が生まれてくるわけであろうが、ここで注意すべきことは、そのような時間的生成における生きた統一が、精神や生命との或る類似性をもっていることである。だからライプニッツは、力を「努力、働き、エンテレケイア(自己完成力)を含んだもの」と言いかえている。このライプニッツが、デカルトによって否定された「実体形相」を「精神に似たもの」と呼びながら、みずからの力学に復活させようとしたのも当然でなければならない。彼の「単子(モナド)」と呼ばれる個体的実体は、宇宙の「表象」や「表出」をこととし、一つの表象から他の表象に向かおうとする「欲求」をもった一種の精神なのである。 一種のというのは、ライプニッツの場合、厳密な意味での精神は、「記憶」つまり自覚をもったモナドに限られるからであるが、しかしまた、宇宙の表象や表出が「それぞれの流儀で一定の視点から」なされるというとき、そのモナドはいわば受肉した精神でなければならないからである。
ライプニッツのモナドについて受肉を語るのは適当ではないと言われるかもしれないが、必ずしもそうではないことは、彼の明晰判明知の考え方からもうかがわれる。今見たように、それぞれのモナドは「生きた鏡」として宇宙の出来事の一切を表象しており、しかもモナドの実質的内容をなすものはその表象以外にはないから、各モナドはそれ自身一つの「小宇宙」であることになる。しかるに、現実の宇宙はただ一つしか存在しないとすれば、小宇宙としての各モナドはみな同一になってしまうはずである。このモナドがそれぞれ区別されるのは、どうしてであろうか。それは、各モナドの表象が、「それぞれの視点」の違いによって、明瞭さの様相を異にするからである。つまり同じ宇宙の出来事であっても、それが或るモナドには判明に表象されるが、他のモナドには混濁した形で表象されるという違いがある。これが、各モナドがそれぞれの視点をもつということの意味なのである。してみれば、ライプニッツの明晰判明知は、明らかにデカルトのそれとは異なる。ライプニッツの場合、神以外のモナドは、他のモナドと区別されねばならぬかぎり、何らかの形で混濁した暗い表象をもっていなければならない。ライプニッツのモナドは、原理的に肉の不透明さにつきまとわれているのである。
ニュートンの力学が、万有引力を根本原理としながら、慣性の法則と力の合成の法則、それに作用と反作用の法則の三つを公理として構築されたものであることは、周知のところであろう。慣性の法則を除けば、すべて力の概念にかかわっていると言ってもよい。しかし、ニュートンが力をたとえば「努力」と呼ぶとき、それは単なる比喩にすぎない。ニュートン自身が引力について述べているところによれば、それは「衝動」と言いかえられてもよいし、「傾向性」でもよい。要するにそれは、「作用の種類とか仕方、作用の原因ないし物理的根拠」に関わる概念ではない。 ニュートンは、物体の中心が本当に特殊な「引きつける力」をもっていると言っているのではなく、ただその名のもとで、物体間の関係を「数学的に考察」しようとしただけなのである。ここには、引力を一種の磁力と考えたギルバートからの飛躍があるであろうが、しかしまた物体から一切の「隠れた質」を排除しようとしたデカルトヘの還帰がある。だからこそ、ニュートンの絶対空間や絶対時間も、ライプニッツ的な「視点」を越えた、絶対に明晰判明な世界の数学的枠組でなければならなかったのである。そして、ニュートン自身がどう考えたにもせよ、前批判期のカントがみずからに引き受けようとしたのは、このニュートンの数学主義から帰結する問題、はたして力学が数学に還元されうるかどうかという、まさにライプニッツの当面した問題にはかならなかった。カントは、形而上学と幾何学の調停という形で、ライプニッツのモナドロジーとニュートンのプリンキピアの総合を企てたのである。その意図は、物体を単なる数学的概念には還元されない「力」の保有者として認めると同時に、その力をいかにして精神的ならざるものとして捉えるか――カント自身の言葉で言えば、いかにして「物体が単子から成り立つ」か、つまり物体としての単子が存在しうるか――という点にあったのである。
以上は、近世の物質観の歴史のまことに粗雑な素描にすぎないが、しかしこれだけでも少なくとも、物質をほとんど質の区別をもたないという意味で均質な、そして惰性的で無目的な「死せる物質」として捉える物心二元論が、決して単なる同語反復でなかったことが知られるであろう。「力」の概念がそれに対するいわば贋きの石であったが、それさえも自発的な自己形成力としてではなく、やはり慣性の法則の当てはまる惰性的なものとして捉えられようとしていたことを、前批判期のカントが教えている。
