以上のように、サルトルの独在論は、ひとえに彼の言う非定立的自己意識にかかっているわけであるが、それでは、その概念にはいささかの問題もないであろうか。
われわれの意識がつねに同時におのれ自身についての非定立的意識であることを証明するものは、差し当り、われわれが必要に応じていつでも自分の行為や、行為していると思っていることを意識にもたらしうるということであろう。『存在と無』においても、例えばわれわれがシガレットを数えているような時、「何をしているのか」という問いには、いつでも「数えている」と即答しうるといった例が、言わば決裁的経験のようにして挙げられている。もしその数える行為が完全に無意識な行為だとしたら、そのような即答は不可能だろう、というのである。
しかし、実を言えば、われわれの行為や思考がつねに意識化されているのであれば、論証の必要もないわけであって、むしろそのような意識化が困難であるところから、彼の言う「自己欺職」や種々の精神的疾患も生じてくるのである。それにもかかわらず、彼は無意識の存在を否定する。その点についての彼特有の解釈を振り返ってみよう。
まず、彼は、無意識によっては「意識を統一する主題」が保証されないから、何か統一的行為が存在するところには、その行為についての非定立的意識があるはずだ、と主張する。しかし、この主張は、非定立的自己意識の存在の証明としては、十分なものとは思われない。というのも、この場合、何をもって行為の統一と言うかが問題になるからである。例えば、夢遊病者がドアをうまく開けて部屋を出ていくといった時、行為の統一を語ることができないであろうか。もしそれがいささかでも可能なら、サルトルの主張は、証明として見れば、論点の先取をおかしていることになる。意識が無意識だというのは矛盾だとするような彼の主張についても、それが単なる言葉の説明にとどまる限り、同じことが言えよう。
次に、われわれが自分の行為や意識しているはずのことを正しく報告できない場合についての彼の 解釈を見てみよう。例えば、自分の行なった計算の仕方をうまく言えない児童がいるという事例について――この例は、サルトルがピアジェの名とともにごく簡単に触れているものであるが――サルトルは、これは単に行為の「説明」(expliquer)という事態に関わるのみであって、非定立的自己意識の 存在の反証にはならぬ、と解釈する。「説明」は反省的意識の次元に属することがらであるから、それがうまくやれないからといって、必ずしも非定立的自己意識の不在を示すことにはならぬ、というわけである。この解釈は、反省の可能性を根拠にしてなされるであろうサルトルヘの反論の反論としてはとんど常用されている。
しかし、ピアジェの報告を少し詳しく検討してみると、サルトルに有利なものはほとんど見当らぬように思われる。今の例について言うなら、例えば「16本のマッチの四分の三は何本か」と尋ねられたある九歳半の児童は、小声で独り言を言いながら、「16の4分の1は4、3×4=12」と計算して、「12本」と答える。ところが、「どうやって12本という答えを出したのか」という質問には、「3×4=12です。16との差は4です。(16本から)4(本)を引いて、その残りを出しました」と答えている。
この報告では、児童は、サルトルの言う「説明」ではなく、単に自分のしたことの報告を求められているにすぎないが、それにもかかわらずこの児童は、16の4分の1に3をかけるという、自分が実際に行なった通りのことを答えてはいないのである。この例は、シガレットの計算をいつでも意識にもたらしうる成人の例が、少しも普遍的な意味をもちえぬことをはっきり示しているのではあるまいか。
また、ピアジェによると、彼のいわゆる第一期(6-7歳)の児童は、一般に「考え」というものが存在する場所を口に定位し、第二期(8-10歳)の児童は、頭の中、もしくは頭の中にあるはずの「小さな口」に定位するという。彼らにとって、考えは「口」や「耳」でなされるものであって、当然、「見えるもの」や「触われるもの」であり、また時には大きな声で話さないと見えないものなのである。こうした児童の考え方はまた、ピアジェによれば、彼のいわゆる「児童の実念論」― 物の名前や言葉が物と分離されず、例えば湖の名前はその湖水の「表面」に存在したりする――とも軌を一にするものであるが、それらの事例は、児童においては、かえって思考や意識の方こそがそれとして意識され難いことを物語っている。児童には、〈眼をつむり、耳をふさいだとしても、私が考えるものであることは疑えぬ〉というデカルト以来の定式は、少なくとも事実問題としては当てはまらないわけであって、こうした点から、ピアジェは、児童の心性の特徴として、「内省(introspection)の不可能」ということ、つまり意識化の困難ということを指摘している。もっとも、このような事実をも、あくまでも反省的意識の次元に属することがらであり、したがって非定立的意識の存否には関わらぬものと解釈することもできようが、しかしその解釈では、「十全な明証」こそがかえって幼児においては(もっと未発達な生物においてはなおのこと)それとして意識され難いのはなぜかという問題は、依然として残るのである。
確かに、自己意識の原初形態を予め反省以前の地点に定位しておくところから出発するサルトルの方法は、反省の次元に立脚した一切の反論から彼を守ってくれるであろう。したがって彼は、病理学的な事例にさえ、非定立的自己意識の存在を仮定することができた。患者が日で何を言おうとも、言葉はすでに反省の所産であるとすれば、非定立的な意識には何の関わりもないことになる。しかし、もともと病理的な事例においては、いわゆる「病識」の有無が問題になるはずであって、ほとんど全く病識がないような場合にも、なお「精神病の核心は意識的なものである」と主張しうるかどうかは、甚だ疑間に思われる。すでに触れたように(三節)、サルトルは、種々の強迫観念や幻覚、或いは夢などをも、対象の非現実化的定立の働きとしての想像力にもとづけ、それらの定立の働きについての非定立的自己意識を問題にしようとする。しかし、その主張には、実は同語反復があるわけであって、問題はむしろ、それらの表象が、彼の言う意味での「イマージュ」として意識されているかどうかにあると思われる。例えば、ロダンの彫像を実物と見誤った人にとっては、その彫像は、少しもサルトル的な意味での像、つまり実物の非現実化的な「類同代理物」ではないわけであろう。ピアジェも、幼児に、夢が現実でないことを説得する難しさを述べているが、この場合には、夢は初めからサルトルの言う「イマージュ」ではないのである。
しかし、実を言えば、サルトルにおいても、非定立的と定立的との次元の区別は、それはど厳格に守られてはいないように見える。彼は、 一方では、例えば「意識(であること)の意識は、何らかの仕方で性質づけ(qualifier)られねばならないが、それは〔超越的対象の〕開示的直観としての教性質づけられうるものであって、さもなければ、それは何ものでもない」と言っている。意識の質は対象の定立によって規定されてくるものであって、何ものも定立しない意識は何の質も持たぬに等しいというわけである。してみれば、意識自身に関しても、それが反省によって定立されないうちは、まだしかじかの意識とは言えないはずである。これは、彼が例えば「地」に関して、「無化」(neantisation)ということを言っていることとも符合する。「地」は、明らさまに定立されていないものであるから、「欄外的注意の対象」として、「無差別な全体」をなすにすぎないわけである。グシタルト心理学者のメッツガーは、かつて知覚された「地」が後になって少しも「既知の印象」を引き起さぬことから、われわれの知覚の〈地に対する盲目さ〉を指摘しているが、それと似た考え方がサルトルにもあるのである。しかし他方、サルトルはしばしば、「反省的意識は、反省された意識の暗々裡の、また非定立的な〈構造〉となっているものを対象として展開させ、措定するというただそのことから、おのれの確信を得てくるのだ」と述べている。言いかえれば、「私の原初の非反省的意識が、それ自身のうちに、後で反省によって顕在化されるような一種の潜在的・非措定的〈知〉を含んでいたに違いない」とするのである。したがって今度は、非定立的自己意識も、それ自身のうちに、すでにおのれを他から区別すべき特有の「構造」や「知」を含むものと考えられ、ただ、それらが潜在的なままに止まっている点に、その非定立的たるゆえんが置かれるわけである。この考え方は、また、例えば「気分」や「体感」などを非定立的意識と規定しつつ、なお快・不快の「調子」を持つものとする考え方にも通ずる。だが、こうなると、一般に定立的意識と非定立的意識との相違は、言わばそれがカッコづきかどうかという点にのみあることになり、したがって以後われわれは、反省を倹って意識にのぼせうるようなどんな意識にも、それにカッコをつけさえすれば、その非定立的意識を語りうることになるであろう。
例えば夢については〈夢(の)意識〉、幻覚に対しては〈幻覚(の)意識〉などと。これでは、もはや定立的と非定立的との区別はないも同然ではないであろうか。彼のいわゆる意識の「半透明」さが、時によって言わば明るさと暗さの両様に使い分けられているように見受けられるのも、そのためと思われる。
