それにしても、いったい「一人称複数」の経験が、果たして本物の経験と呼ばれうるものかどうか、それはせいぜい一つの心理的事実を指示するだけのものではないかどうか、を検討してみなければならない。

「われわれ」と言っても、実際は二人の人間が別々に、ただし同時に、 一つの状況に当面しているだけのことかも知れないからである。事実、われわれの常識ではそうした考え方が支配的であろうし、またサルトルの『存在と無』などには、そうした主張が見られる。おそらく、サルトル程その主張を徹底させた者も少ないであろうから、まず彼の所説を取り上げてみたい。

この問題に関するサルトルの根本見解は、要するに二人以上の人間が「一個の間主観性」を構成することはありえず、したがって、「われわれ」と言っても、それは存在論的には「主観‐われわれ」としてではなく、ただ自分が誰か第二者にとっての「彼ら」の一人にすぎぬことの承認として、つまり「対象―われわれ」として存立するにすぎない、という点にある。

例えば彼方の人間らしきものが本当に人間であって自動機械や物でないということは、サルトルによれば、それが単に私の知覚の〈対象〉ではなく、むしろ彼みずからがこちらを見返して、この私を対象となしうるような〈主観〉であるということを意味する。他人とは私以外の意識的主体・主観であって、決して私の対象ではないはずだというこの原則を、能う限り一貫させようとするのが、サルトルの根本の立場なのである。

したがってサルトルは、他人を「私に眼差しを向ける者」、いや「眼差し」と定義する。そしてそこから、彼は特有の〈他人の存在論〉を展開する。すなわち、主観としての「眼差し」は、もはや「眼」のような対象的なものではありあえず、むしろ例えば背後の物音やカーテンのかすかな揺れなどにさえ感じられうるものでなければならない。「眼差されている眼差し」(regard-regarde)ではなく、「眼差している眼差し」(regard-regardant)こそが他人なのであり、それは「眼差しを表わす対象の破壊にもとづいて現われる」。したがって、他人との出会いも、サルトル的な意味では、私が「そこに誰かがいる」のを発見することではなく、逆に「眼差しを向けられているのを意識する」こと、そのことなのである。

こうしたサルトルにとっては、カーテンの後ろや自分の背後に実際には誰もいなかったというような経験は、ほとんど何ものでもない。この場合、眼差しているのは私であって、他人ではないからである。なるほど「眼差しが内世界的な(intra-mondaine)しかじかの現前(presence)に結びついている」という「他人の事実性」は、私に「主観‐他人」の存在を確信させる「きっかけ」(occasopn)ではありうる。しかし、そうした事実性に結びついていないとしても、「眼差し」が意識される限り、そこに他人は現前する。「主観‐他人」の存在は、私が自分を眼差されていると意識することによってしか、またその中でしか、明証的には開示されないのである。したがって、サルトルにとって顧みられるべきものは、経験的意味での他人の現前ではなく、むしろ、例えばわれわれ各自が体験する「恥」の意識といったものである。「恥しさ」とは、「誰かの前で」「自分がそれであるところのものについて」恥じることであり、自分を他人によって眼差され、対象化されているものとして自ら承認することだからである。言いかえれば、恥しさの意識においては、私の「対私的な関心」(pour-autrui)な存在を開示するのであって、私のいかにしても疑いえぬ自己意識の中に、すでに主観として他人の存在が与えられていることになるのである。

「誰かの前で」と言っても、その「誰か」の存在は、現実の他人の経験によって知られるのではないかとも思えるが、サルトルはそれを否定する。「私の経験の領野に一人の人間が対象として出現」したり、私が「他人の身体」に出会ったりするのは、「主観‐他人」に関しては蓋然的な告知でしかありえず、したがってそれらは私の「対他存在」に支えられ、その「経験的ヴァリエーション」となることによって初めて、他人の存在のそれなりの確証たりうるにすぎないのである。サルトルにとって、他人の存在は、私の存在から演繹されるものでもないが、また経験から導出されるものでもなく、私が現に自らのコギトーにおいて確認している一個の「事実必然性」である。

このような「主観‐他人」は、 一切の対象的規定を越えた「私の超越ではないところの一つの超越」であり、「超世界的」であり、「無限の自由」でなければならない。そして、私に与えられている彼の身体は、私によって眼差され、対象化されている超越(「対象‐他人」)の「事実性」(単なる「そこにある」)にすぎないのである。なるほど、他人の身体は、単なる物質でも屍体でもなく、事物の道具連関によって指示されるその「帰趨中心」として出会われるであろう。他人の身体は、「それから出発して状況が存在するところのもの」であり、その限り一つの超越を表わしている。しかし、その超越は、他人自身によってのみ捉えられるものであり、私には単に、私によって対象化されている「超越された超越」が与えられうるにすぎない。しかも、それがともかくも超越の運動であるということは、他人の事実性、つまり彼の身体からではなく、私の対他存在の本質構造からして知られるほかはないのである。「私にとっては、まず他人が存在するのであって、私が彼をその身体において捉えるのはその次である。他人の身体は、私にとって二次的な構造である」。こうした「主観‐他人」は、当然、もはや単数でも複数でもありえないであろう。サルトルの見るところ、「ひと」とはまさにそうした「数以前」の「眼差し」としての他人のことなのであり、それでこそ「私がどこにいようとも、〈ひと〉は絶えず私を眼差す」ということにもなるのである。

以上のような見地では、いわゆる「共同存在」が否定されるに至るのも当然であろう。そこでは人間関係はせいぜい互いに眼差し合う関係となるほかないが、しかし眼差しである限りの主観‐他人を同時に眼差すことができない以上、その関係は、自分が相手を一方的に対象化するか、或いは自分を相手によって対象化されていると意識するか、そのいずれかであるような〈主観〉対〈対象)の「相剋」の関係でしかありえないからである。いずれにしろ、私は「我」として「汝」に出会うことはできない。ましてや 「われわれ」という 一人称複数は、言わば 一種の形容矛盾であ って、それはせいぜい「対象‐われわれ」として、言いかえれば私が誰か第二者にとっての「彼ら」の一人であることの承認として、しかも決して相手を巻き添えにすることのない単なる私の心理的事実として成り立つにすぎない。サルトルによれば、階級といったものの存在性格もまさにそこにあるのであり、それがまた、あらゆる敵対者を包含しようとする人類的見地からのヒューマニズムが「到達不可能な理想」である理由ともなるのである。そうした問題はやがて『弁証法的理性批判』において、新たに導入されたマルクス主義の展望のもとに詳論されることになるが、しかしさまざまの社会的存在が「対象れわれ」をモデルにして考えられている点はそこでも変らず、人々の「融解」(fusion)は「他者性の直接的反対物」を意味し、同胞性(fraternite)や友愛も、「反暴力」(contre-violence)としてそれ自身「テロル」を生み出すと言われている。いずれにしても、サルトルの所論においては、「もろもろの主観性が、手の届かぬ所に、互いに根本的に分離されたままに止まり」、「いかなる〈共同存在〉をも実現しない」以上、彼の哲学の独在論的傾向は明白であり、また、かえってそこに、彼が「サルトル的人間」という形で、「救いがたい存在に思える」近代人の自己疎外を見事に描きえた理由もあったのである。