しかし、メルロ=ポンティも言うように、「私に注がれた犬の眼差しは、私にはとんど痛痒を感じさせない」のであってみれば、「相剋」も実は「交通の一様式」なのではあるまいか。相争いうるのは、一面では共同存在を生きている「われわれ」だけなのであって、サルトルの言うサディズム的な、あるいはマゾヒズム的な人間関係にしても、あくまでも「主観‐他人」や「主観‐我」の対象化に成り立つのであり、初めから即自的な物を問題とするわけではないであろう。それにもかかわらず、サルトルにはそうした視角がほとんど欠けているように見える。しかもそれは、彼がそのいわゆる「非定立的自己意識」を過大視するようになってからの傾向であるように思われる。というのも、最初期のサルトルは、むしろ意識の志向性の側面に注目し、もっと違った自我論を展開していたからであるボーヴォワールによれば、初期のサルトルは、意識の働きを、彼方に向けておのれを越え出、対象をその在る所に定立する志向性として捉えることによってのみ、「意識の絶対性と世界の現存とを両方同時に肯定し」、かくて「イデアリスムとレアリスムの対立を超越し」うる、と考えていたという。事実、彼は、その最初期の論文『自我の超越性』においては、いわゆる「自我」を、形式的にも実質的にも意識の住人としてではなく、むしろ反省の対象化作用によって二次的に構成された「〔意識の〕綜合的統一の超越的極」とみなし、要するに超越的対象の一つに数えていた。実体的自我などを含まぬ「非人称的」ないし「前人称的」な純粋志向性としての意識のみが、超越論的意識の名に価する、というわけである。しかも、その論文の末尾近くには、注目すべき言葉が述べられている。「私の〈我〉(mon Je)が、他の人たちの〈我〉よりも意識にとってより確実だということはもはやない」と。初期のサルトルにとっては、意識を非人称的な志向性として捉えることが、自我から一切の特権を奪い、そのようにして独在論を克服する道でもあったのである。
もっとも、それでは、その超越者であるはずの自我が〈私の〉自我として意識され、〈他人の自我〉とみなされないのはどうしてか、という問題が残るであろう。その点、『自我の超越性』には、確かに割り切れないところがあった。例えば、自我は一種の〈主観の極〉だと言っても、それはフッセルのいわゆる「対象の極」――さまざまの述語の中心的統一点にすぎぬ「空虚な或るX」― とは異って、おのれの「諸状態」に「巻き添え」にされるものである限り、「その支えている諸状態や諸行為の具体的全体」にはかならぬと言われ、また時には、自我はその諸状態に対して、ちょうどフッセルやハイデガーの言う「世界」のような、「地平」の関係にあるものと見られ、さらにその自我には、おのれの情性的な諸状態。諸性質の創作者としての「合の子的な退化した自発性」さえ認められている。
こうして、また、自我の「内面性」や各自にとっての「親密さ」――反省によって探し求められねばならぬという意味では、「外から見られた内面性」であって、完全に超越的性格を免れているわけではないにしても――が正当化されてくることにもなる。こうした自我の特殊性からすれば、自我を構成する反省の定立作用もまた特殊な構造をそなえていなければならぬことになるが、それが何かということについて『自我の超越性』は何も答えてはおらず、その問題が、やがて特に『存在と無』において、「非定立的自己意識」の名のもとに考察されることになったのである。
もっとも、この概念が特に重視されるに至ったのは、彼の直接の主題から言えば、想像力の考察に即してである。彼は「志向性」こそが意識を世界の主観的変形とみなす偏見からわれわれを解放してくれるものと信じ、以後その概念によって心理学を「ことごとく再検討」する必要を感じていた。
その成果の一つが『想像的なるもの』であるが、そこで彼は新たな主張を展開することになったのである。すなわち、サルトルの考えでは、イマージュやそれに類する〈想像的なもの〉は、総じて、想像力という、意識の「非現実化機能」に対応するノエマ的相関者である。しかるに、対象のそうした非現実化的定立が現実の対象によって引き起されるはずはないから、その機能は意識の自発性によるものでなければならない。ということはまた、想像力には、おのれの行う対象定立の仕方についての自己意識が、ただし非定立的な形で伴っていなければならぬということになる。こうしてサルトルは、想像的な一切のもの、例えば夢や幻覚といったものにさえ、その非定立的自己意識を仮定するに至ったのである。
しかも、周知のように、フッセルは一般にわれわれの経験に「十全な明証の領域」と「不十全な明証の領域」とを区別し、そして「射映」によらぬ直観のみを「十全な明証」と呼んでいた。しかるに、サルトルの見るところ、われわれの日常的な反省は、体験の〈対象化的〉な反省であるから、その限り一種の射映を含んでいることになる。当然、十全な明証は、対象化しない反省以前の自己直観に求められるほかはなく、それを彼は意識自身の非定立的自己意識に見出したのである。そしてサルトルによれば、反省は、意識が意識自身を対象として定立するところに存立するわけであるが、もしその定立自体が非定立的に直観されていないとすれば、われわれは無限後退に陥って、自分が反省しているかどうかも分らなくなり、結局、反省が不可能であることになる。そうだとすれば、反省でさえ、反省自身の非反省的。非定立的自己意識によって可能になると考えるほかはない。こうしてサルトルは、すべての意識を、対象についての定立的意識であると同時に、またおのれ自身についての非定立的意識であるとみなし、しかも後者の点に「本来の主観性」の根拠を置くに至ったのである。以後、例えば快とは、或る対象を快きものとして定立する働きであることには変りがないにしても、それはもはや対象への非人称的炸裂ではなく、そうした対象定立の働きの自己意識とされるのである。
ここから、意識はまた、とりわけ一人称的な存在と見られることにもなった。意識は、物のように単に在るのでもなければ、非人称的な匿名の存在でもなく、絶えずおのれの存在を問題にしつつある存在、つまり「対自存在」とされる。したがってまた、意識は、あるゆる即自存在の「無化」としてのみ存在するということにもなる。身体を含めて、意識を外的に決定しうるものはもはや何もない。対自としての意識の「自己」は、いわゆる「自我」として、言いかえれば主語として初めから即自的に存在するものではなく、その存在への問いかけの再帰的な目的語(soi)として、そのつどの問いかけの中に出現するものでなければならない。その意味で、意識的主体は、本質的に、他人にとって代られることもなければ、内面的に知られることもない絶対的一人称の実存となるのである。
