少なくともフッセルならばそう呼ぶであろう「根源我」を身体として捉え、そこから世界のすべての事象を捉えようとしたところに、メルロ=ポンティの哲学の特質がある。
したがって、メルロ=ポンティにとっての身体は、主観としての身体であり、みずからを「私」と呼びうる「私の身体」を意味する。この「私」が、デカルト的自我ではなく、やはり身体であるのは、それが世界のただ中に投錨し、したがって事物を一度には一面からしか見ることができず、自分自身をさえ全面的には反省しえないような自我、つまり受肉した自我だからである。
そもそもメルロ=ポンティにとっては、「自己自身への透明さ」として定義され、物の存在を存在の意識に吸収してしまうような「現実的意識」というものは存在しえない。フッセルが言っていたように、「世界」とは物の現出する「地平」であり、そして地平とは、ある特定の事物の顕在的な経験とともに思い描かれ、暗に予想されているさまざまな潜在的経験のまとまりのことだとすれば、みずからのうちに或る暗がりをもたない意識にとっては「世界」なるものは存在せず、したがって現実性ということも意味をなさないはずなのである。したがって、メルロ=ポンティは、デカルトの「我思う、故に我あり」を認めない。
「私が存在することを確信するのは、私が存在していると思うからではなく、むしろ反対に、私の考えの実際の存在から、私の考えについて持つ私の確信が由来するのだ」。
意識の本質は、あくまでも何ものかへと志向的に関わる超越の運動にある。自己意識の場合もその例外ではなく、実際に私が世界のただ中に存在しているからこそ、その私が内的に知覚され、その存在が確信されるのである。世界のただ中にあって、自分よりも物の方がよく見え、「我思う」よりはまず「我能う」として生きる我が、メルロロポンティの主観‐身体にはかならないのである。
こうしてみれば、メルロ=ポンティの言う身体が、フッセルの「根源我」に相当する理由も容易に納得されるであろう。その身体が何よりもまず「我能う(あたう)」の我だということは、それが知覚的行為の主体だということであり―、メルロ=ポンティの場合、われわれにとって最も原初的な行為は知覚である――、したがってその主観‐身体の相関者は当然「知覚世界」でなければならない。が、この知覚世界こそは、フッセルの言っていた「生活世界」なのであって、それは、メルロ=ポンティが知覚世界をしばしば「生きられる世界」と呼んでいることからも明らかである。メルロ=ポンティによれば、知覚世界は、それについてわれわれのなしうる一切の分析に先立ってそこにある。というのも、知覚は「世界の科学ではないし、一つの行為、意図的な態度決定でさえなく、一切の行為がその上に浮き出てくる〈地〉であり、一切の行為に前提されているもの」だからである。そのような仕方で、知覚は科学的認識の「意味基底」をなすのである。
もちろん、メルロ=ポンティ自身が或る箇所で述べているように、科学的認識がすべて知覚に還元されるわけでも、知覚だけが真理の独占権をもっているわけでもないとしても、「知覚の中には、あらゆるレベルで気づかれるような〈対象へのアプローチの仕方〉が含まれている」。こうして、メルロHポンティによれば、絵画や言語、制度、歴史、さらには最も抽象化された「事実学」としての自然諸科学についてさえ、その目的論の場は、知覚の主体としての主観‐身体のうちに位置づけられなければならないのである。
