他人知覚の問題は、いろいろな観点から論じることができる。例えば、他人知覚の発生を論ずる児童心理学ないし発生的心理学の問題として、或いは人間関係の構造を論ずる社会心理学の問題として、さらには人間と機械の異同に関わる文明批評の問題等々として。しかし哲学的には、この問題は独在論的立場への反省として提出されている場合が多いように思われる。ここでも、そうした観点からこの間題について考察し、そのことによって「身体」概念の射程を検討して教たいと思う。
窓外の通行人を、「バネ仕掛けの人形」としてではなく「本当の人間」として、つまり他人として見る時、われわれはそれを、〈私とは異なるものでありながら、しかも自身としては、私と同じ「我」であるもの〉として見ているであろう。だが、私と異なるものが、いかにして「我」でありうるのか。「他」と「我」という、矛盾した二つの契機が、いかにして一つに結びつきうるのか。それがまず、問題になる。
もっとも、この問題は、疑似問題であるようにも見える。「他我」と言っても、それは、われわれの通念からすれば、他人が私だという意味ではなく、ただその他人が〈自身としては〉我だというにすぎないからである。そこには、私が机を見て、それを四角だと判断する以上に特別の事情はなさそうに思える。
しかし、少なくとも、他人が何を考えているかよく分らぬという経験は、少しも珍しくはないであろう。それどころか、他人の感覚や感情などは、私の感覚・感情などと単に一定の規則的関係をもって対応しているだけのことであって、体験する主観としての他人への到達は、私には原理的に不可能ではないか、とも疑えそうである。現に、サルトルなどはそうした見解をとっている。だが、もしそのように、他人の体験がわれわれには全く蓋然的なものとしてしか与えられないとすれば、さらに、他人の存在そのものもまた蓋然的であることにはならぬであろうか。もちろん、他人の体験の言わば内容的不明確さにもかかわらず、それが体験であること自体は確実だというのが、われわれの平生の確信ではある。しかし、その確信といえども、何かの具体的確証によって動機づけられているはずでなければならない。
ところで、われわれに与えられている他人とは、具体的には彼の身体である。したがって、差し当りそこに、他人の存在への確信の根拠があると考えられる。それでは、他人の身体はどのようにして彼の〈自身としての我〉を告げるのだろうか。かつてフッセルは、他我は決して直接に与えられないものであり、われわれは眼前に直接に知覚される「物体」としての他者の身体に「私の身体を統覚的に移しいれること」によって、他我を構成するのだと考え、そうした移し入れを動機づけるものを、他者の種々の「行動」(Gebaren)に見出した。したがってフッセルにおいては、他人知覚は「間接的志向性」に属するものであった。しかし、こうした理解では、他人の存在には蓋然性がつきまとわざるをえないと思われるし、それに、はたして他人の与えられ方はそのように間接的なものかどうか、言いかえれば他人の身体は初めは単なる「物体」として知覚されるものかどうか、疑間の余地は十分ありそうに思われる。
一方、他人が〈自身としては〉我であるものだとすれば、他人の存在は、おのれの対象を〈自身〉という形で捉えうる者にのみ開かれてくるのでなければならない。ところで、対象のそうした把握は、しばしば、私からのアナロジーや投射によるものとして説明されてきた。右のフッセルにも、そうした表現(例えばdie analogisierende Auffassung, Einfühlungなど)が見られる。もっとも、フッセルは、このアナロジーによる把握を、「推理」(Anslogieschluß)と区別して、「類似化的統覚」(verähnlichende Apperzeption)とも呼んでいる。それにしても、やはり私の身体との「類似性」が問題になるわけであるから、いずれにしてもアナロジー説が成り立つためには、まず自分自身が十分に把握されていなければならない。しかるに他人知覚は、まだ自己についてそれ程の把握があるとも思えない幼児にも、十分認められるのである。それに、そもそもアナロジーということが言われる時には、すでに相手が〈自身として〉捉えられていることが前提されてはいないだろうか。例えば他人の頭痛は、彼の顔のゆがみを代表象として、私の頭痛から推しはかられるほかはないと仮定しても、そもそもここで彼の痛さが問題となるのは、彼がすでに私によって〈自身として〉把握されているからであろう。さらに、他人知覚は、それが十分に発達した段階では、私にとっての利益が彼にとっては損失になるといった対立関係の認識をも含むと思われるが、こうした認識は、私の志向の直接的延長ではなく、その逆転でなければならない。そうした意味での(相手の身になること〉がいかにして可能になるのか、ここにも一つの問題があろう。私は決して私以外の誰かではありえないとすれば、私はせいぜい一種の思考実験において他人の身になったつもりになるだけのことなのだろうか。それとも、むしろここにこそ、いわゆる独在論の試金石があると考えるべきなのだろうか。
ところで、われわれの日常生活においては、私と他人とが別々の存在でありながら、また同じものでもあるといった構造を合意する用語が少なくない。例えば、「われわれ」といった一人称複数の人称代名詞などがそうである。というのも、「われわれ」は「われ」ではないが、また二人の人間による利害や危険などの〈共有〉― 一方の利害や危険がそのまま他方のそれを意味しうるという事態――なしでも、「われわれ」とは言われないからである。「われわれ」という語は、ハイデガーの言う「共同存在」(Mitsein)、っまり互いに相手が〈われ〉でもありうるという事態を指し示しているのである。
著者や講演者の用いるいわゆるeditorial「we」や医者が患者に、あるいは教師が生徒に対して用いると言われるpaternal「we」(例えば、How are we[you] feeling this morning?)などにも、同じ共同存在の論理が合意されていることであろう。
また不定(総称)人称代名詞と言われるものの中、例えば周知の「ひと」(one)などにも、同じ事情があると思われる。ただし、今度は〈私〉が、他人の中の他人として、〈他人〉の中に吸収されるわけであるが、それもまた自他の一種の融解にはかならぬとすれば、そこにも「われわれ」の経験があると言っていいであろう。例えOne must obey the law.はWeを主語にしても、意味はほとんど変らないのである。だからこそ、例えばハイデガーにおいても、「ひと」(das Man)はすぐれて「共同存在」を指示する語でありえたのである。
もっとも、文法的には、「われわれ」は、しばしば「私」と「他者」との結合として説明される。しかし、この他者が〈自身としての我〉と解される限り、論理的順序はむしろその逆でなければならぬと思われる。自他の融解の経験としての「われわれ」こそが、私をして他者の〈身〉になることを可能にし、そのようにして〈自身としての我〉である他者の存在を私に開示してくれるに違いないからである。
もしこのように他人知覚の地平を「われわれ」の経験に設定することが許されるならば、ここに、他人とは差し当たり〈私〉とともに「われわれ」を構成する〈共同存在者〉と定義し直すことができるであろう。したがってまた、われわれに与えられる原初的な他人は、二人称の「彼」や「彼女」ではなく、むしろ二人称の存在性格をより強くもつものであろうと予想される。二人称とは、例えばブーバーの言うように、私によって直接に話しかけられ問いかけられている限りでの他者の在り方を指すものであるが、私と他者とのそうした「関係の直接性」もまた、「われわれ」の合意するところだからである。
もちろん、私によって例えば「お前」と呼ばれる他人は、逆に私を「お前」と呼びうる存在であり、その意味では、二人称は単なる一人称複数ではなく、その自他への分化を含むものとも言えようが、それにしても、私と不可分な関係の「敷居」のうちにある〈自身としての我〉のみが「お前」でありうるのである。ハイデガーの言う「ひと」にしても、それは確かに「特にだれということもできない中性的なもの」には違いないが、例えば幼児の「模倣」などから考える限り、そこにも、それなりの「関係の直接性」が保持されているとも考えられる。おそらく、私との共同的・相互的関係が単に潜在的ないし欠如的に止まるところに、私の一方的な客観化の対象として、二人称の「彼」や「彼女」が出現するのではないだろうか。そのような意味で、われわれは以下に、他人知覚の地平としての「われわれ」の経験について考察してみたいと思う。
